ニニフニ。

寺社を巡ったり描いたり彫ったり。

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竹寺(たけでら)

バス停付近

飯能駅からバスに乗ること40分。
終点で降りて、そこからさらに3、40分歩くという、
なんとも行きにくい場所にある「竹寺」へ行ってきた。
今年は12年に一度となる本尊御開帳の年だということで。

歩きはじめの地点がもう既に山深い。
緩やかな上り坂をうねうね行き、しばらくすると竹がわさわさ生えているゾーンへ。
竹が多いところにあるので「竹寺」なのだ。
というわけで到着。

入口

竹寺は「神仏習合の姿を今に残す東日本唯一の遺構」というのが売りである。

明治になるまで、お寺と神社というのはけっこうごっちゃになっていた。
神社の境内にお寺があったり、神前で読経したり、カミの名に「菩薩」と付けてみたり。
でもまあそれがいろんなモノに神性を認める日本人の自然な感覚だったわけで、
ごちゃごちゃしながらも相互補完の関係を保ちながら上手いことやっていたのだ。
このカミとホトケの混ぜこぜ状態を「神仏習合」と呼んでいる。

ところが、である。
明治元年、一転して政府は「神仏分離令」を発令、神社から仏教色を一掃せよと命じたのだ。
その目的は天皇の権威を絶対的なものとして強調することにあった。

まだ基盤の弱い明治新国家の統制を図るため、神の血を引く天皇を現人神として崇敬し、
その典拠となる神道を国教化するという政策である。

皇祖神アマテラスから続くその正当な血筋をはっきりと示すためには、
これまでのようにカミとホトケが同居しているようではイカンと判断したわけだ。
そうは言っても神仏分離令は決して仏教全体までを否定したものではなかった。

のであったがしかし、徳川幕府が定めた檀家制度の保護下で堕落した僧侶に恨みを持っていた
神官、民衆はこれを拡大解釈し、仏教廃絶を目指す「廃仏毀釈」運動を断行するに至る。

結果、神社内にあったお堂、仏像、仏具、経本はことごとく壊され燃やされ、
神社に所属していた僧は還俗、神官に転身したりもした。
そのほかドサクサに紛れて破壊、盗難、祭神のすり替え、社名の変更なども行われ、事態は混乱を極めたのだ。
その被害は甚大で、全国のおよそ半数にのぼるお寺が廃絶に追い込まれるほどであったという。

ああなんたる愚行、悲しき文化破壊。

とりい

で、話を戻すと、この竹寺は相当な山奥にあったために神仏分離令から逃れることができたというわけだ。
明治政府は竹寺の存在に気がつかなかった。

というわけで境内の入口には神社のごとく鳥居がある。
その先の本坊を抜けて、奥の石段をのぼると本尊「牛頭天王」を祀る本殿(本堂とは呼ばない)。
本殿手前の鳥居にくっついてる大きな輪っかは「茅の輪」と言ってケガレを祓う装置であるらしい。

茅の輪

そして本尊の「牛頭天王」。この神がまた正体のよく分からない神である。名前すら知らんという人も多いだろう。
たしかに現在ではマイナーな存在である。
しかしそれと知らずにこの神と関わりを持っている人もまた多いのだ。

元々、牛頭天王は祇園精舎(インドのスダッタという大商人がオシャカさまのために寄進した僧院)の守護神であったらしい。
その後、中国で陰陽道やら道教やらの信仰を取り込みながら、やがて日本へやってきたのだという。
で、我が国に招いてみたところ、この神は疫病を流行らせる荒ぶる神であった。
そんな神ならば普通はいらんと考えそうなものであるが、そうならないのが日本人である。
すなわち、疫病を流行らせる力があるということは、丁重に祀れば逆に疫病を防いでくれる、ということになるわけだ。

そんなわけで「疫病を防ぐ神」としてのポジションを獲得した牛頭天王であったが、やがて神仏習合が起こる。
「荒ぶる神」、「疫病を流行らせる神」という共通の属性を持つことから神道の神「スサノオ」と同一視されるようになるのだ。
この牛頭天王=スサノオに対する信仰を「祇園信仰」といい、二神を祀るのが全国各地の「八坂神社」である。
有名な京都八坂神社の祇園祭りももちろんこれで、祭りの本来の目的は牛頭天王を楽しませて疫病を防ぐということにあった。

本殿

さらにこんな伝説がある。
その昔、北海に住んでいた「武搭神(たけあきのかみ)」が嫁探しの旅に出て、日が暮れたのでその地に暮らす「将来兄弟」に宿を乞うことにした。
弟の「巨旦(こたん)」は裕福だったがこれを断り、一方貧しい兄の「蘇民(そみん)」は粗末ながらも快く神をもてなした。
後に無事嫁を見つけた武搭神は再び蘇民のところへやってきて、

「これからかつての報いをしよう。お前に子孫はいるか。」

と問うた。蘇民が

「妻と娘がいます」

と答えると、武搭神は二人の腰に茅の輪を付けさせ、それを目印に蘇民の妻と娘を除く巨旦の一族を滅ぼした。

思いっきり根に持っていたのである。

そして武搭神は、

「私はスサノオである。後に疫病が流行ることがあればそれは我が眷属の仕業であるから、
その時は蘇民将来の子孫といい、茅の輪を付けていれば疫を免れるようにしよう。」

と言った。

この話もくっついて、武搭神=スサノオ=牛頭天王となった。本殿前の鳥居に大きな茅の輪があったのはそういうわけである。
ますらおぶりなポスターで話題を呼んだ岩手「黒石寺」の蘇民祭は、蘇民の子孫であることを示す護符を奪い合うというものだ。

さらに疫病を防ぐという性格が病を治すことにつながり、薬師如来とも同一視されたりして、もはや一体誰なんだという状態になっている。

ちなみに、牛頭天王は妻との間に八柱の子供を設けるんだけど、これが「八王子」で、かつて牛頭天王+八王子信仰があった場所の地名として残っている。
「天王」とつく地名もやはりそう。
この竹寺というのは通称で、正式には「八王寺」なのだ。

本坊

と、現在もいろんなところで牛頭天王信仰の影響を見ることができる。
にもかかわらずほとんどこの神の名が知られていないのはやはり神仏分離令が関係しているのだった。
牛頭天王と同一の神とされているスサノオは皇祖神アマテラスの弟という重要なポジションにいるので、
そんな天皇の血筋に近い神がゴズテンノウなどというよく分からん神と同じであるというのはけしからん、と明治政府は判断したのだ。
さらに天王と天皇が似てるところも紛らわしいしけしからん、ということであった。
結果、八坂神社や天王神社からは牛頭天王がひっぺがされて、スサノオのみを祀る神社になってしまった。
つまり牛頭天王は明治期に抹殺された神だったのだ。
もし、この竹寺にも神仏分離の波が届いていたならば、やはり牛頭天王ではなくスサノオを祀る神社になっていたことだろう。

そんな複雑な経歴を持つ牛頭天王。竹寺の本尊は手に斧と索を持ち、頭に牛を乗せて条帛をつけたオーソドックスなタイプ。
稀に手がたくさんあったり虎に乗っているものもあるようだけど、そもそも牛頭天王の像自体滅多にないのだ。
天王の背後には唐服を着た小さな八王子が控えている。
疫病を撒き散らすようには見えないかわいらしいお子さんたちだ。
しかし天王、王子ともに像自体はそれほどのものでもなく、むしろ寺宝の「鉄造大日如来」がちょっと気になるところ。

本坊の辺りに戻ると、毛がぼっさりした感じの犬が放し飼いにされていた。
こちらをまったく警戒せず、というよりこちらにまったく関心を示さず、私のすぐ近くまで歩いてきたものの完全にスルー、犬はどこかへ消えてしまった。
フリーダムであることよ。

ほか、境内には中国から贈られたという村上龍みたいな顔をした超絶鳩胸の牛頭天王像も。
なかなかの違和感である。

by中国


さらに、住職が考案した竹眼鏡というものがあり、「凸ばった下界を〇く見てください」
とある。都心まで見えるらしい。
ほうほうと思って覗いてみると下界は霞んでいて何も見えないのだった。うむ。

タケメガネ

さすが山奥で神仏分離をやり過ごしただけあって竹寺は平和でのんびりしていた。犬とかね。
予約をすれば竹の器に盛った精進料理を出してくれたりもするようで、ハイキングがてらに季節の素材を食するというのもよさげ。
ぜひこの先も牛頭天王と共に、ひっそりとのんびりとやっていっていただきたいものである。


蘇民将来護符


  1. 2009/05/23(土) 20:23:25|
  2. 埼玉|
  3. trackback:0|
  4. comment:0
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